著作権について考えること

musicaparadiso2006-04-27

著作権は最近とくに言われるようになったが、インターネットと日本の経済がハードからソフトへ移行してきたのが原因だと思う。


重厚長大産業が景気を牽引していた時代を過ぎて、労働生産力が中国やアジアの他国へシフトしていってしまったので、かつてのようにモノをつくってお金を儲けることが難しくなってしまった。最近、知的財産とか無形資産とか、いろいろ言われるようになり、それとともに、目に見えない「権利」をどうやって保護して、ビジネスにしていくかが日本の国力に関わってくる。

アメリカがすごいと思うのは物づくりもさることながら、この見えない「権利」を商売のネタにしようと早くから気が付いたことだと思う。この、なんでもお金にしようと思う商魂は、あらためてすごいと思う。



日本は今まで、権利というものを主張しようとすると、よってたかってバッシングする風習があるから、みなが権利を主張することになれていないし、できればお互い暗黙の了解というか、なあなあというか、そういう商慣習で来たと思う。そういう商慣習自体も、見直される時期が来ているんだと思う。

そうでなければ、いくら著作権だ、個人情報保護法だといっても、それは机上の話に終始して、結局形骸化してしまうと思う。しかし、一方でこんなふうに杓子定規にあてはめられないとも思う。特に著作権に関しては、文化庁のやり方は本当に間違っていると思っている。それを管轄する文科省は日本で一番だめな役所と断言しても良い。



僕は音楽が好きなので、音楽を通して、著作権というものがいったいどういうものか、自分なりに考えることがある。

すばらしい音楽を創り出す人には本当に感謝するし、これからも良い音楽をたくさんつくって、たくさんの人を癒して欲しいと思う。しかし、著作権があるからといってそういったすばらしい音楽をspreadすることを縛るのは本末転倒だと思っている。僕は自分の好きな音楽があると、たくさんの人に知ってもらいたいので、じゃんじゃんコピーして渡す。これは著作権侵害。しかし、あまり悪いことだと考えていない。それより、僕の渡したCDによってその人の音楽をしって、CDを買ったりする人がいれば、それで良いと思って開き直っている。なかば、確信犯的にやっている。だから、コピーコトロールCD(CCCD)などもってのほかで、音質も悪くなるし僕は絶対に買わない。



以前、ドラマとかの作曲をしている有名な作曲家と話す機会があり、思い切って「僕は××さんの音楽とか、人にコピーして渡したりしちゃってるんですけど、作曲家としてはそういうのは許せないですよね?ネットでのDLとかも、いやですよね?」と聞いたことがあった。

意外にも、××さんは「いや、俺は全然構わないよ。むしろ、宣伝してくれてると思ってる。もちろん、お金はきちんと欲しいけど、それはレコード会社や出版社、テレビ局との問題」という答えが返ってきて、なんだか、少し気が軽くなったし、昨今ネットでの著作権著作隣接権を声高に主張する評論家やマスコミに溜飲がさがった思いがした。



しかし、法律のことは詳しく知っておいて損はない。世の中は知らない人が損するようにできていて、著作権も知っていれば、高いお金を払ってフォトエージェンシーからネガを借りる必要など、全くないことが分かる。

たとえば、モナリザなどダヴィンチの作品を印刷物などに商用利用したいとする。ネットで転がっている写真を使うのは全く問題ない。しかし、世の中では写真にも著作権があるとか、ダヴィンチの絵は有名だからだめだとか、その絵を所有する財団や博物館の許可がいるとかいって、金儲けをする連中がいる。

500年も前の作品に著作権などない。いわゆる、パブリック・ドメインとよばれるものだ。著作物もあまりにも有名になって、皆が知るところになれば、保護する必要がないと、法律自体が定めているのだ。

だいたい、著作権の立法趣旨は、創造物から派生する権利を一定の間だけ守る、ということだ。つまり財産権だ。
これを未来永劫、法律が守るなんてあり得ない。意味がない。経済の発達を阻害するだけで、文化の発達を萎えさせるだけだ。



かつて、小澤征爾がだったか、バーンスタインだったかが言っていたのだが、「現在の音楽はすべて、モーツァルトやバッハ、ベートーベンの焼き直しに過ぎない。あのビートルズだってそうだ」と言ってのけるくらい、リサイクルが日常茶飯事の世界で、過去の音楽を使うのに、いちいち許可がいるようでは芸術や文化の発展はあり得ない。

だから僕は敢えて、ダヴィンチの絵を誰の許可も得ずに使って、ダヴィンチの絵を模写したりして、広告に使いまくった。今のところ、誰からのクレームも来ていない。来るわけがない。